Table Talk 座談会

すべては、地域の皆さまのために。
〜清恵会の「これまで」と「これから」〜

1970年(昭和45年)7月15日、当時はまだ少なかった民間の救急病院として発足した社会医療法人清恵会。社会医療法人清恵会理事長・佐野記久子、清恵会病院院長・森信若葉、清恵会向陵クリニック院長・田中秋生、清恵会医療専門学院/清恵会第二医療専門学院学院長・宮﨑瑞夫、清恵会訪問看護ステーション所長・九埜孝子の5名が、清恵会の「これまで」と「これから」を語り合いました。

  • 社会医療法人清恵会 理事長 佐野 記久子

    1970年の創立当時から財務を担当する。1985年、初代理事長のあとを引き継ぎ、理事長に就任。現在に至る。

  • 清恵会病院 院⻑ 森信 若葉

    1989年、大阪医科大学卒業。
    2000年より清恵会病院小児科に勤務。2018年、清恵会病院院長に就任。医学博士、日本小児科学会専門医。

  • 向陵クリニック 院⻑ ⽥中 秋⽣

    1995年、大阪大学医学部卒業。
    国立病院機構大阪医療センター総合内科(腎臓内科)、透析クリニック勤務等を経て、2020年、清恵会向陵クリニック院長に着任。

  • 清恵会医療専門学院・清恵会第二医療専門学院 学院長 宮﨑 瑞夫

    1970年、大阪市立大学大学院医学研究科修了。米エモリー大学研究員、大阪市大講師、滋賀医科大助教授を経て大阪医大教授。2008年より、清恵会医療専門学院・清恵会第二医療専門学院学院長。

  • 清恵会訪問看護ステーション 所長 九埜 孝子

    清恵会医療専門学院第二看護学科8期生、清恵会病院看護部副部長を経て2019年7月清恵会訪問看護ステーション所長に就任

  • まずは改めて、
    理事⻑から清恵会50年の歩みについて教えてください。

    医療と人材の充実を救急医療から始まった50年

    佐野理事長

    現在の社会医療法人清恵会の出発点である清恵会病院は、大阪万博の年、1970年(昭和45年)に堺市三国ヶ丘に開設されました。87床からのスタートでした。時代は、折しも高度成長期。社会の発展とともにモータリゼーション(車社会)化が進み、事故によるけが人が急増するなど社会問題となっていました。また、堺市は工場労働者を数多く抱える地域であったため、救急を要する患者さまが適切な治療を受けられず町にあふれていたのです。

    静岡県出身ながら、縁あって関西で医師として働いていた初代理事長の佐野恵は、そんな現状を大いに憂慮していました。人の命を助けることが使命の医師として、「患者がたらい回しにされている」状態を何とか解消したいと義憤に燃え、三国ヶ丘の地に当時はまだ少なかった民間の救急医療を専門とする清恵会病院を立ち上げたのです。身内に医療関係者や資産、ましてや地縁もないなか多額の借金を背負ってのスタートでした。初代理事長は、自ら医療現場の先頭に立って周囲を鼓舞し、それこそ365日ほぼ働き詰め。私も病院スタッフの一員として、医療について何もわからない状態で実印を持たされ金庫番を任されました。レセプトなど医療事務もこなし、目の回るような多忙な時期が続きました。

    開設から5年ほどたった頃から、初代理事長は新たな事業計画を次々と打ち出し、1975年(昭和50年)には看護師を養成する清恵会高等看護学院(現:清恵会医療専門学院)と人工透析専門の清恵会病院第1分院を開設しました。1977年(昭和52年)に、理学療法士・放射線技師養成のための清恵会第二医療専門学院、リハビリに特化した清恵会病院第2分院を開設するなど、医療法人としての体制を固めていきました。今は移譲されましたが、滋賀県の愛東町に温泉療養施設を併設した清恵会近江温泉病院の設立や、将来の医科系大学への道筋をつけようと長野県に学校法人清恵会天竜光洋高等学校を開校するなど、最初の病院開設から十数年で「踊り場のない階段」を全力で駆け上がるように事業を広げてまいりました。

    急に立ち止まることを余儀なくされたのが、1981年(昭和56年)のことでした。初代理事長が病に倒れて身体が不自由になり、数年後帰らぬ人となったからです。それは、ちょうど開設15周年を迎えた1985年(昭和60年)のことでした。その年、私が理事長職を引き継ぐこととなり、全員一丸となって「オール清恵会」として歩むこととなりました。5ヶ年計画の法人中長期経営計画に基づいた経営を行い、さらなる医療・運営体制を強化。医院・施設の統廃合、移譲を推し進め、現在は、2015年(平成27年)に市立堺病院跡地に移転・開院した清恵会病院(急性期機能病院)を中心に、清恵会三宝病院(複合型慢性期機能病院)、清恵会向陵クリニック(人工透析外来)、清恵会医療専門学院(看護師・准看護師養成校)と清恵会第二医療専門学院(理学療法士・診療放射線技師養成校)、清恵会訪問看護ステーションの体制を確立しました。急性期から慢性期疾患に至るまでの医療サービスを提供するとともに、医療人材の育成を行っています。

  • 50年の歴史を振り返って、
    皆さまの率直な感想をお聞かせください。

    たゆまぬ歩みを⽀えた先取の気風で発展を維持

    佐野理事長

    清恵会の歴史は、ほぼ3つの時代に分けられます。まずは、最初の15年。初代理事長が、高校野球に例えれば「エースで4番」、つまり絶対的存在として全てに渡って辣腕をふるい、皆がその後をついていった時代。次は、私がその後を継いだ30年ほどの時期で、体制を一から見直しカリスマに頼らずチームとして足場を固めた時代。そして、清恵会病院が現在の堺区南安井町に移転してから現在までの5年間です。長いようで短い。あっという間の50年間でしたね。

    森信院⻑

    50年前に初めて見た清恵会病院は、周囲を畑に囲まれた中でひときわ目立っていました。87床の小さな施設ではありましたが、子どもの私にとっては、とても大きく見えましたね。その風景が今も目に焼き付いています。
    父である初代理事長は、どんなときも白衣姿で“24時間医者”のイメージそのもの。会話する時間などなく、医療についての思いを直接聞くこともありませんでした。医師になって清恵会に携わるようになり、初代理事長が短期間に築き上げたものの大きさと、それを守ってきた多くの職員、そして現理事長の功績を実感することになりました。2年前に院長に就任してからは、より一層その重みと今後の発展への使命感を強く感じています。

    宮﨑学院長

    私が清恵会医療専門学院・清恵会第二医療専門学院の学院長になったのは12年前。今の理事長になってからの時代です。ですので、初代理事長を直接存じ上げないのですが、人材育成も含めた医療現場の充実を目指しておられたのだろうなと理解していました。自ら病院をつくられた理由は、自身の信念、哲学を持った医療人材を現場に供給したいとの想いを強く持っておられたと確信し、その想いを忠実に実行する教育を行う必要性を強く感じながら学院長に就任したのを今でも覚えています。

    九埜所長

    私は、清恵会医療専門学院の8期生です。1978年(昭和53年)に清恵会病院に入職しました。その当時、初代理事長はすでにご病気で現場に立たれることはほとんどなかったのですが、私が当直で救急外来の業務を担当したときに診療介助をさせていただいたことを鮮明に覚えています。先ほど宮﨑学院長がおっしゃったように、その当時、医療人材の育成には並々ならぬ信念を持っておられたように先輩から伝え聞いています。そのことを、この50周年を機に、所長として改めて心に刻まねばと感じているところです。

    宮﨑病院長

    初代理事長に関して特筆すべきは、何事にも先進性が感じられる点です。特に感銘を受けたのは、近江温泉病院の開院です。今から40年も前に、昨今注目されているような温泉付きの療養施設を立ち上げるというのですから、その時代を先取りした斬新な感覚に驚かされます。

    佐野理事長

    初代は、なんでも早いのです。実は、亡くなる前に大阪の松原市に土地を購入し500床の新たな病院を設立しようとしていました。1980年代当時から屋上にヘリポートを設置して、そこから救急のドクターヘリを飛ばそうとしていたのです。とにかく、時代の先々を読んで実行しようとする人でした。

    森信院⻑

    その構想は知りませんでした。人材育成・教育、療養施設まで実現してもなお、救急医療の拡充を考えていたのでしょう。

    宮﨑学院長

    初代理事長は、病院の敷地を開放して患者さまや地域の方々と一緒に盆踊りなどのイベントも開催しておられましたね。今、地域住民に対して積極的に院内の見学会やイベントを開催する病院が増えてきていますが、こうした社会への貢献なども先陣を切って実施しておられました。

    九埜所長

    時代を先取りした取り組みを、どんどん実行されていたことは「すごい」の一言です。ただそれは、確固たる信念があるからこそでしょう。今の清恵会があるのも、その信念に支えられているからだと改めて感じています。

    田中院長

    私は、当院に来てまだ日は浅いのですが、清恵会の理念を皆で唱和する姿に50年の歴史の重みを感じます。何事も、一から始めるのは大変なこと。皆さんのお話を聞いて、初代理事長の病院創設に込めた大いなるスピリットに思いを馳せることができました。

  • 清恵会の現状と今後についての抱負、
    地域の方々へのメッセージをお願いします。

    地域の一員として
    医療サービスの更なる充実を

    森信院長

    清恵会病院は現在地に移転後、地域包括ケア病棟、療養病棟を置いたケアミックス型を進め、患者さまが安心して治療を受けて退院できることを心がけています。一方で、清恵会の原点である救急医療が主軸であることに変わりはありません。高齢化が進み医療が専門化していく中で、当院の強みを活かして課せられた役割を果たし、地域の医療機関と密に連携して堺市二次医療圏の救急医療に更なる貢献を目指して進化していきたいと考えています。

    田中院長

    私が院長を務める清恵会向陵クリニックは、透析医療の黎明期である1970年代に開院したパイオニア的存在です。当時は、透析が実験医療から保険医療に切り替わった過渡期。そこから実績を積み上げて45年になりますが、急性期医療を軸に循環器内科など各専門医療が充実している清恵会病院を中心に、密に連携できる体制が確立しているのが強みです。何かあればすぐに協力しあえる雰囲気があり、とても助かっています。こうした良さを活かしながら、さらに地域のニーズを満たせるよう努めたいと思います。

    九埜所長

    清恵会訪問看護ステーションは1997年(平成9年)に開所し、今年の2020年(令和2年)で23年目を迎えます。所長は私で4代目ですが、すべて清恵会医療専門学院の出身者。まさに、清恵会の理念と伝統を連綿と受け継いできた23年間だといえるでしょう。ただ、これからは高齢者の方々を支える人口がどんどん減っていく時代に突入していきます。そのような中でもしっかり人材を確保し、清恵会の特徴である「急性期から慢性期、在宅ケアまで」の体制を継続できるように守っていきたいです。そして、地域の皆さまに良質な医療サービスを提供できる人材を育てていきたいと考えています。

    宮﨑学院長

    清恵会医療専門学院・清恵会第二医療専門学院の卒業生は、毎年、看護師、理学療法士国家試験の合格率がほぼ100%で推移しています。それにもまして特筆すべきは、清恵会が「病院」と「教育機関」の両方を備えていることでしょう。今は、医療系人材を養成する大学や専門学校が乱立する時代ですが、そのほとんどは附属の医療機関を持ちません。こうした私たちのアドバンテージを大いに活用するためには、さらに医療現場との連携を強化することが今後の課題。病院・学院が一体となって、よりよい職場環境をつくることが目標です。

    佐野理事長

    私たち清恵会は、地域の皆さまのおかげで半世紀の歴史を刻み続けることができました。病院運営は、各時代の医療制度や社会状況に影響をうけることが多々あります。その都度適切に対応できるよう、これからも新たな施策を取り入れた法人中長期経営計画を作成し粛々と実行したいと考えています。その具体的な取組のひとつとして、今年、2020年(令和2年)4月から清恵会健診センターをスタートさせました。清恵会病院8階フロアに開設、数多くの市民の皆さまにご利用いただいています。清恵会の医療を「町に欠かすことのできない要素」の一つとして捉え、とにかく、この堺の町に貢献する医療法人であり続ける。一にも二にも、地域の皆さまのため。そのような強い気持ちで今後の5年、そして10年後も取り組んでいきたいと思います。ご期待ください。